70 桜

70 桜

その一、多摩湖

 お花見の季節になると多摩湖はいつもの静かさとは見違えるように活気にあふれてきます。花のトンネルの下を車が連り、この時ばかりは夜桜まで人通りがたえません。

 この桜は昭和二年に村山貯水池(多摩湖)が出来た時に植えましたが、その時の木はほとんど枯れてありません。昭和九年に時計王といわれた服部金太郎氏が亡くなられ、翌十年に遺族の方から一万本の桜の寄付があり、主に人の多勢来る下貯水池のまわりに植えました。人の集る所には吉野桜、北側の堤防からよく見える所や、南側の周囲道路に五間間隔で山桜を植えました。五間という間隔は木の盛んな時に広げた枝が、ちょっとつく位だそうです。直径五・六センチの若木を植えたのですが、今ある古木はその時のものです。八重桜は折られたり、早く枯れるのでほとんどないようです。

 戦時中に出来た高射砲の陣地のため、その廻りの桜は切られてしまいました。戦後は薪(たきぎ)がなくて貯水池の山から木を切り出されたこともありました。最近は広い所だけに手入れも思うようにまかせません。台風の被害も多く、昭和四十一年には貯水池の木も随分倒れ、五十四年には松が二百本近く折れました。

 それでも春になれば桜はつぼみをふくらませます。空一ぱいにひろがる花の盛りは、日本の国花を思出させる季節です。近頃は周囲道路はマラソンのコースになり、走り抜けていく若い人の姿や、遠足の子供のにぎわいが湖水にひびき渡ります。

 いつだったか白鳥が一羽とんで来て話題になったことがありました。新年の初日の出を見にここまで来る人もいるこの頃です。(東大和のよもやまばなしp151~152)


その二、桜街道

 もとは旧青梅街道で、ここでは江戸街道ともいいました。小平から東大和市駅を通って火災保険会社の寮の前から村山団地の方へ行く道のことですが、ここに美しい桜並木がありました。小鳥が多くひばりが鳴いて、桜の下にはかげろうがゆれていました。小学校一、二年生の遠足の場所でしたし、運動会をしたということも聞きました。花の頃は鹿島さまの裏山へ上ると見事な眺めでしたし、遠くからは白い幕をひいたように見えたそうです。

 この桜は明治十五、六年頃に植えたといわれます。道の両側は畑で、さつまいもや桑の木が植えられ中央が少し小高くなって桜はそこにありました。こさをひくといって切りたおしたこともありました。

 戦前外国人が花見に来て、最初は近づくのがこわくて、おそるおそる見ていたこともあります。
 桜街道という名は比較的新しい呼び名のようで、昭和二十年四月二十四日の空襲で日立が殆ど壊滅状態になりましたがその時に大部分の桜もなくなり、今残るのは名前だけです。
(東大和のよもやまばなしp153)